ギターが弾けるという基準。「何か」が出来るという基準。
過去にギターを携えアメリカを周っていた時に、とある外人さんに言われて印象深かった言葉があります。
「僕達みたいに楽器を弾く人にはレベルが4種類ある。
ビギナー(初心者)、ミドル(中級者)、エキスパート(上級者)、そしてアジアンだ。」
これは僕が演奏を終えた後、その外人さんに「君はプロのギタリストなのか?」と聞かれ、「いいや全然。でも、そうなりたいと今まさに頑張っている所だよ。」と答えた時にもらった返事です。
アジア人のプロフェッショナルに対しての意識やその基準というのは自分たちと比べて極めて高いというイメージがあるというのがその言葉の含むところ。
彼にとってみれば当時の僕のその演奏でさえ、プロと名乗るには十分な演奏だったみたいです。
日本語が喋れる外国人
外国人の方と交流がある方でこんな会話をした経験はないでしょうか?
「僕は日本語が喋れるんだ!」
「そうなんだ、ちょっと何かしゃべってみてよ。」
「オーケー!『スシ、テンプラ、フジヤマ』!」
これは極端な例えですが…
僕がアメリカに居たときも、「日本語が喋れる」という外国人に「ちょっと話してみてよ」と言ってマジでメチャクチャ喋れる人ってそうそういなかったように思います。
喋れてもすごいカタコトで「ワタシノ、ナマエハ、〇〇〇デス」とか。
でも、彼らにとってそれは「日本語が喋れる」という事なのです。
考えてみると、日本人で「英語が喋れます」と自分で言う人って、マジでメチャクチャ喋れたりしますよね。
例えば道案内やお金のやり取りが出来るような人でも「ちょっとだけしか…」と謙遜しがちです。
ましてや「マイネームイズ〇〇〇」しか喋れないという人は「英語が喋れます」とは絶対に言わないでしょう。
ギターが弾ける日本人
ここで記事のタイトルの話題に移ります。
ギターが弾けるという基準はどこにあるんでしょうか?
コードが弾ける
一曲弾ける
ソロが弾ける
アドリブが弾ける
ある一定の事柄が出来て初めてギターが弾けると言えるといったイメージがどこかあると思います。
僕が教えている生徒さんに小学生の子がいるのですが、初めての面談の時に「ギターが弾けるようになりたい」と言われた事があります。
なのでとりあえずギターとピックを持たせて、指板の上を一か所だけ人差し指で押さえてもらい、上から一気にジャーン!と弦を掻いてもらいました。
ギターを弾く方はお気づきかもしれませんが、これは「Em7」というコードで5弦2フレットのみを押弦する事で鳴らす事の出来る立派なコードです。
僕の基準で言うと、この子はもうこの時点で「ギターが弾ける子」です。
もっと言えば、「コードが弾ける子」でもあります。
「もう君はギターが弾けているよ。じゃあ、そこからどうなりたい?」
そう聴くとここで初めて「もっと色々な音が出せるようになりたい」「色々な曲が弾けるようになりたい」という具体的な意欲のある目標が出てきます。
僕の思う「ギターが弾ける」という基準は、「ギターを鳴らす事が出来る」という至極単純なものです。
そしてそこから初めて「ギターを上手に鳴らす事が出来る」ようになり、「ギターを自由に鳴らす事が出来る」ようになるものと考えます。
「ギターが弾ける」という自覚がある、あるいは周りが「弾ける人」と当人を認めるというのはとても大事な事で、それがあって初めて向上心や積極性が生まれるものではないかと感じます。
〇〇が出来るという基準
日本人は「〇〇が出来る」という基準を何事においてもどこかとても高いところに設定していて、それが出来るという自覚を持つことも、他者がそれを出来ると認める事もなかなかし辛いように思います。
特に、自分と同等かそれ以上の立場にいる人に対してはその基準が自身にも他者にも著しく厳しく設けられる節がある様に感じます。
そうなってしまうと、それをもっと「上手になりたい」であったり、「活かせるようになりたい」といった意欲が生まれにくくなってしまいます。
赤ちゃんが初めて「パパ」や「ママ」と言葉を発した時。
大体の親は「喋った!」と喜びます。
たった1つの音を続けて2回発しただけで、「喋った」と喜びます。
何かが出来るというのは、そういう基準でいいんじゃないかと僕は思います。
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